好奇心okinawa’s blog

観光タクシーから見た沖縄

夏休み盛り

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おっつ、こりゃ乗ってくるな。繁華街からつながっている路地から出てきた二人の若者。案の定、後部ドアをコンコン叩いてきた。「豊見城の翁長(おなが)まで」と言ったかと思うと、あ、そこ戻ってどこどこへ、そこで一人降りるから、で、結局降りなくて、そのまま豊見城へ向かって、豊見城のどこ?とりあえず真っ直ぐ行って、と。あぁ~酔っぱらい特有の会話だ。おそらく・・・だろう。「はい、お客さん、次の交差点どこに行くの」、「・・・ん?えぇ~、あ、通り過ぎてるよ~」、ね、やっぱり寝ちゃっただろう(笑)。はい、戻りますよ、ここから頑張って道案内してよ、寝ないでよ・・・ハハッ、一人降ろして、はい、次は?あれっ、やっぱりもう一人も寝ちまった。途中のあるバス停で停めて、「ここからどこへ・・・ん?」、「ん?どこ?」、「ほらバス停の看板を見て、ここからどこへ・・えっ、ここでいいの、ほんと?」と、料金を精算して降ろした、やれやれ行くか・・れっつ、バックが後部座席に・・・歩き始めたお客の前でまた停めて、「お客さん、はい、忘れ物」、「んっ、どうも、あの~、どこどこまで行って」とまた乗り込んできた。はいはい、いいですよ~どこまででもお付き合いしますよ、まだ朝早いし。
 
イメージ 2帰りに、えっ、こんなところでという場所で別のお客さん。ほっ、行き先は海岸近くだ。降ろしたあと、一休み。「美ゅらSUN(ちゅらさん)ビーチ」。観光客や地元のファミリーたち。
 
昨日のコラムにこんな記事が。
<まだ18歳の娘、フィリピンの山中をさまよううちに死亡した。米軍の侵攻前に両親へ宛てた手紙がある。「清はただ懸命にがんばります。強い人に身も心もして、帰れたら帰ります。こんな世になるのならもっともっと良い子でありたかったとつくづくと感じます。お許しくださいませ」。「覚悟」の手紙。戦後、外地の看護婦の待遇が悲惨だったことを知った父親は、娘をこうも強くしっかり育てたことを悔やんだ。>
戦後68年終戦の幻・・・いまだ、夏盛り。
今日もいろいろありそうだな。